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◆連載『特攻ツアー』-7(鹿児島-鹿屋-宮崎)【海軍特攻・史料館】

 2009/9/4
_MG_6283b.jpg  (↑本当は「残暑お見舞い」かな…鹿児島・指宿のキャンプ場にて)

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(↑朝食を済ませ、暫し呆然と鹿児島湾?の海と空を味わう)

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(↑テントから歩いて僅か3分の波打ち際…ナカナカよかキャンプ場でごわした…)




◆島津家の仙巌園[磯庭園]

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仙巌園は、江戸時代初期に島津光久(19代当主)によって築庭され、中国龍虎山の仙巌にちなんで「仙巌園」と名付けられた。四季折々の美しさに加え、桜島(築山/遠景)と錦江湾(池/中景)を借景に取り入れた雄大な風景が楽しめる大名庭園として有名。

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中国の御禊(みそぎ)儀礼を淵源とする「曲水の宴」を催した「曲水の庭」が築かれ、さらにその後ろに江戸時代中期に、中国から日本で輸入した孟宗竹を移植した場所「江南竹林」が広がっている。
高校生の修学旅行のグループが見学していた。

売店には薩摩切子の専門ギャラリーもあり、大いに目の保養をさせて貰ったが、欲しいと思ったグラスなどの値札を見るとさすがに気安く買える値段ではない。
別に島津家資料館たる「尚古集成館」もあり、廃藩置県後の島津家の苦労が偲ばれた。



◆桜島フェリー
鹿児島港と桜島港を15分で結ぶ24時間運行のフェリー。

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(↑これから桜島港へ向かう・同行めぐちゃん)

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(↑鹿児島港を出るとすぐに海上自衛隊の潜水艦「おやしお型?」が浮上し停泊していた。一般公開でも無さそうだし・・・何をしているのだろう…?)

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(↑あぁ!桜島や桜島…間欠的噴煙が風にのって錦江湾を渡り鹿児島市街地に降り注ぐ)


_MG_6316.jpg (↑時間帯によっては10分置きに出るフェリーが数珠繋ぎで桜島港に入港する)



◆桜島
先を急ぐ為、湯之平展望所は諦め(次回のお楽しみ)、R234沿いにある有村溶岩展望所に向かう。


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(↑二枚とも有村溶岩展望所より…生きている火山の迫力は凄い!)



◆海上自衛隊鹿屋航空基地「史料館」

1936年、海軍鹿屋航空隊は創設され、中国大陸に対する爆撃やマレー沖海戦で活躍する。
マレー沖海戦は太平洋戦争初期の1941年12月10日、陸上基地から発進した海軍航空隊がイギリス東洋艦隊を攻撃し戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈した海戦である。
洋上を航行する戦艦を航空機がはじめて討ち取った海戦として有名である。
当時のイギリス首相チャーチルはこれほどのショックを受けたことはなかったとその回顧録のなかで記しているが、それほど世界を震撼させ赫々たる武勲ある海軍鹿屋航空隊も、ついにアメリカ軍の沖縄侵攻により特攻出撃の基地としての任務を担うこととなる。

現在、鹿屋基地から出撃し特攻戦死した908名(うち海軍は775名)中、遺族の許可を得た775名の遺影が鹿屋航空基地史料館に展示されている。最年少の隊員は16歳。今でも年間10万人以上が史料館を訪れているという。



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(↑借用写真:資料館全景、右側に現役の海上自衛隊鹿屋航空基地がある) 
 

鹿屋基地史料館は、旧海軍航空の興亡の軌跡及び、戦後の海上自衛隊の歩みとその中で活躍する隊員の姿を伝えることにより、国を守ることの意味を理解してもらうために以下のテーマを元に開設しました。

◇海軍を含めた鹿屋基地の歴史、施設及び部隊等の変遷に関すること。

◇海軍の戦史資料及び海軍航空の資料、文献、航空部隊及び基地等に関すること。

◇海軍特別攻撃隊に関する資料及び文献に関すること。

◇海上自衛隊航空部隊の歴史、装備品等の変遷、任務、組織及び活動状況等に関すること。
                                                              <史料館解説より>



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(↑鹿屋の一つの目玉たる旧帝国海軍の二式大艇・Nikon F6<最後のFilmニコン>を持つめぐちゃん)


二式大艇は、日本の航空・製造などのあらゆる技術を集結して設計・開発した世界一の高性能を誇った大型飛行艇です。昭和15年(1940)12月、最初の試作機が完成・初飛行し、昭和17年(1942)2月に旧日本軍に正式採用されました。大型飛行艇としては前例のない長大な航続距離と高速性能を誇り、戦後二式大艇の調査に同乗した米海軍のシルバー中尉がその高性能に驚嘆して「日本は戦争には負けたが、飛行艇では世界に勝った!」と賞賛の言葉を送ったのは有名な話です。

昭和20年(1950)11月、最後の二式大艇が香川県にある旧日本海軍宅間基地から、横浜まで空輸されました。本艇の高性能に注目した米海軍が、本国に持ち帰り性能試験を行おうとしたからです。しかし、その後ただ1回の飛行試験を行っただけでこの最後の二式大艇はバージニア州ノーフォーク海軍基地で長い眠りにつきました。ところが、戦後30年経過した昭和53年(1978)6月、米海軍省は、経費削減から「具体的な取り引き計画が示されない限りスクラップにする」ことを表明、この報を受けた船の科学館の笹川良一初代館長は、資金提供と船の科学館での受け入れを表明、昭和54年(1979)7月、二式大艇は日本に帰還し、船の科学館にて本格的な復元作業へと始動していきました。そして平成16年4月24日、船の科学館から海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に移され展示されました。

終戦時までに131機の二式大艇が製造され、本艇を輸送飛行艇とした「清空」が36機製造されており、総合計167機が製造されました。ちなみに展示されている二式大艇は第426号機と記されており、昭和18年(1943)製造の第26号機と推察されます。
<史料館解説より>


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(↑戦後も飛行艇製造の伝統は受け継がれ<許され>、新明和工業が開発し、海上自衛隊が使用する飛行艇US-1が史料館野外に展示されている)


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(↑借用写真:新型US-1A改飛行艇試作2号機の飛行、通称US-2)



_MG_6359.jpg (↑そして二つ目の目玉たる復元された、「零式」艦上戦闘機五二型)


平成4年、2機の零戦が鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた。
この二機の機体をともに補う形で1機の零戦として修復された実機が展示されている。
修復には隊員の熱意と、多方面の協力が注がれ、新史料館に展示されることになったが、2機の零戦の発見と新史料館の建設は「運命的」であると海上自衛隊は述べている。

名称未設定 1のコピー (↑見事にレストアされた操縦席と栄21型発動機)

名称未設定 2のコピー
(↑借用写真:引き上げられた零戦の修復には自衛隊員と三菱重工技術者によって、鹿屋工作所で行われた)


◇こうした戦争の史料や遺産は基本的には国家によって保存・修復・管理され、広く一般に公開されるべきものであると思うのだが、これまで政府はあまり熱心ではなかった。
310万人もの国民を犠牲にし、3年9ヶ月に亘って最後は60ヶ国近い国を敵にまわして戦った我が国の戦争の記録はもっとあらゆる角度から保存・展示されるべきである。
民間の戦争博物館・記念館・平和館に展示されている史料はいずれも錆びて朽ち果てた状態で展示されている武器類が多く、それが戦争の悲惨さをより一層強調する訳で、それが展示する側の狙いでもあるようだ…しかし、それでは戦争の一面しか見せない事であり人間の歴史に対する偏った見方しか生まない。

少なくても我々の祖父や父や兄はこうした武器を手に、唯一の命を賭して戦ったのである。
であるならば、我々はこれらの遺品や武器に対してもっと敬意を表するべきである。
その点において、さすがと言うべきか鹿屋史料館の前大戦の展示品は零戦に限らずどれもが一応の手入れがなされた上で展示されているのは好感が持てる(海外の先進国の展示は全てそうだが)。

勝った戦争は評価し、負けた戦争は愚かとだけ決め付けてしまっては、負けた戦争から本当のものを学ぶ事が出来ず、たとえ反動の方向に動いていったとしても失敗する可能性が高いと(私は)思う。


◇今回、鹿屋の特攻史料館に来て見たいと思っていた理由として、ハワイのミズーリ記念館を見学した際に教えられた零戦特攻機の話を聞いてからである。日系人の案内人は沖縄海域でミズーリに特攻し、舷側に翼端を接触させてしまった為に、甲板上にバラバラになって散華した日本海軍搭乗員の話をしてくれた。
その零戦特攻機は九州の鹿屋基から発進した機であり、搭乗員の氏名・階級も調べたと説明された。

◇ 『オアフ島、真珠湾にある米海軍戦争記念館』

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(↑借用写真:ミズーリにまさに突っ込もうとする特攻機…もう5M高度が高ければ…!) 

4月11日午後、ミズーリに対して特攻機(爆装零戦)1機が低空飛行で右舷甲板に突入した。突入機の右翼は第3副砲塔上にぶつかり、燃料に引火した。艦は表面に損傷を受けたが、速やかに鎮火した。この攻撃の跡は現在も船体に残っている。突入機の飛行士の遺体の一部が40mm機銃座から回収され、ウィリアム・キャラハン艦長はこの飛行士を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。この飛行士の官姓名は長らく不詳であったが、ミズーリ記念館の調査の結果、鹿屋航空基地を出撃した第五建武隊の石野節雄二等兵曹の機であったと判明した。(同時に突入した、同じく第五建武隊の石井兼吉二等兵曹の可能性もある-突入できなかった機は、対空砲火により撃墜された) ミズーリで行われた水葬の記録はこの1回のみである。<Wikipediaより> 

 

特攻の是非については現代の価値観で軽々しく述べる事は出来ない。
しかしながら、我々の今日はこうした先人の覚悟と犠牲の上にたっている事だけは確かである。
60年以上の人生を一度も国家との一体感も国民としての一体感も感じないまま終える事と、20歳にもならないまま用意された物語の上を歩まされ(あるいは進んで歩み)終えた人生と、果たしてどちらが幸せな人生であるのかの判断は(私には)意外と難しい。 その時々の与えられた人生を歩む事しか我々には出来ない。

願わくば…政治が国家として…彼らの短き人生の終焉に対する責任と感謝とを、もっと制度として明示すべきだ。


我々は約4時間近く見学をしたが、見るべきものが多くやがて閉館の時間になってしまった。
これから宮崎まで一般道を行かねばならず、鹿屋史料館を後にした。
楽しみにしていた日南の海岸は早くも黄昏ており宮崎に着く頃には完全に夜になっていた。
我々は宮崎国際ホテルで食事をし、温泉に入りしばし仮眠をとった。
本日の走行225km。


明日は(最終)姫路城…

                                          つづく


CanonEOS 5D and G10使用

【過去同連載】

連載『特攻ツアー』-6(熊本・市房山-人吉-鹿児島)【知覧陸軍特攻・平和館
連載『特攻ツアー』-5(雲仙-熊本-阿蘇-市房山)【雲仙岳災害記念館
連載『特攻ツアー』-4後編(大村湾・母衣崎-長崎-雲仙)【長崎・グラバー園
連載『特攻ツアー』-4前編(大村湾・母衣崎-長崎-雲仙)【長崎・原爆資料館
連載『特攻ツアー』-3(博多-佐世保-大村湾・母衣崎)【佐世保海軍基地
連載『特攻ツアー』-2(広島・呉-博多) 【呉・大和ミュージアム
連載『特攻ツアー』-1(仙台-広島)【広島原爆ドーム

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